今日から一般公開です。9時半の開場前に大勢並んでいます。
工作のセットです。1人に1つずつ用意しました。
初めにタマネギにカッターナイフで切れ目をいれ、ピンセットで薄皮を剥ぎます。
剥いだ皮をアクリルの板の上に載せ、酢酸カーミンで着色します。
染色に少し時間がかかるので、この間に顕微鏡およびレンズの説明をします。
次に、直径2mmのガラス玉をキャップの穴(予め開けてある)に嵌め込みます。
余分な染色液を拭き取り、セロテープで試料をカバーし、ペットボトルに被せます。
先ほど作ったキャップのレンズを付けて、覗きながら、キャップを回してピントを合せます。
タマネギの細胞です。うまく出来ればこのように見えます。この顕微鏡の倍率は200倍です。
赤い点の核は染色時間が短く見えませんでしたが、細胞膜は低学年の児童でも見えました。
朝から晩まで、30組位の演習を行いました。助手だけのつもりでしたが、先生もやってしましまいた。
2010年07月
昨日は寝てしまい、センサーライトが光ったどうかは確認できませんでした。でも、もう1つ買って、広さをカバーすることにしました。
買物がてら九品仏に行って見ました。鉄飛坂を越えて目黒通りに出ると昔の道標があります。
左に40分も歩くと、九品仏:浄真寺に至りました。
江戸時代初期に創られた浄土宗のお寺で、九品浄土の弥陀仏:九品仏で有名です。総門です。
境内3万6千坪、七堂伽藍を完備した数少ないお寺だそうです。入ると直ぐに閻魔堂です。
仁王門です。赤い仁王が入っていました。
鐘楼です。彫刻が見事で、風格があります。
本堂です。この辺で、有名なお面被りのお祭が行われるようです。
上品堂で、上生・中生・下生、3体の阿弥陀仏が入っています。中品堂、下品堂もあります。
この境内は、室町時代には奥沢城だった所で、鬱蒼とした森も残されています。
鷺草を育てていました。昔はこの辺に自生していたようです。この花には次のような逸話があります。
昔、世田谷城に嫁いだ奥沢城の姫君があらぬ疑いをかけられ、遺書を可愛がっていた白鷺の脚につけて離しました。丁度その時、狩りをしていた世田谷城の主がその白鷺を射落とし、文を見て驚き帰館しましたが、時すでに遅かったのです。白鷺が射落とされた所から、1本の草が生え、白鷺に似た可憐な花を咲かせたということです。この鷺草は我が目黒八中の校章にもなっています。
天然記念物の大銀杏も堂々として、見事なものです。
盛夏に咲く百日紅が紅一点、彩を添えていました。
東門を出て、九品仏をあとにしました。
九品仏川緑道を下ります。この川は自由が丘を経て、緑ヶ丘の先で呑川に注ぎます。
自由が丘の緑道です。ベンチなど置いてあり、街と一体になっています。
自由が丘の駅です。有名になっている割には、駅は改善されていないのに気がつきました。
今日はここまでです。山田電気でセンサーライトを買って帰りました。徒歩だと大変です。
取敢えずは袋を取換え、ネットを被せ、さらにビニール袋で補強しました。そして、防鳥ネットで直接触れないようにしました。夜寝ていると、何か感じるところがあり、雨戸を開けて見ていると、ハクビシンが現れました。小型の猫位の大きさです。昨日かじった房の所に行き、様子を見て退散して行きました。
今日は袋屋さんに行って、レジ袋を買ってきました。昨日のビニール袋と交換です。
防御ばかりではということで、センサーライトを買ってきました。LED1Wですが、明るいものです。
赤外線に反応するということですが、ハクビシンを感知することができるでしょうか。
今晩は雨戸を開けて寝ます。発光を見られるでしょうか。
環七を北へ10分ほど歩くと、目黒通りとの交差点に柿の木坂陸橋があります。
この向こうが柿の木坂です。昔は小山のようになっていましたが、平坦になりました。
目黒側には、碑文谷警察署があります。
環七を少し進むと、日丘橋で、東横線が交差しています。
線路に沿って、学芸大の駅の方に下りて行くと、碑文谷公園です。
都の公園で池があり、真ん中の島には神社があります。ボートに乗れます。
動物広場やポニー乗り場があります。
ポニー乗り場の所で、子供たちが馬だと思うのですが、世話をしていました。
この週末には盆踊りが催されるようです。
江戸時代からの灌漑用池で、昭和7年に東京市に寄贈され、公園になりました。
立会川の水源だそうで、水路跡をたどってみます。
ダイエーの所に出るのか思ったら、
少し東にずれていました。確かに水路の跡です。
田向公園を通って
サレジオの裏手の方にでました。ここには用水があったような気がします。
八幡様の門前に出る用水があったように思いますが、経路は不明です。
今日、東京は36.3℃になり、2年振りの猛暑日になりました。
この散歩は他日行ったもので、今日は家でじっとしていました。
我が母校大岡山小学校です。創立82年だそうです。最近では合唱コンクールで有名です。
環七を渡って5分も行くと、碑文谷八幡に至ります。鎌倉時代には出来ていた村の鎮守です。
ここには、碑文谷の地名の基になった碑文石が保存されています。室町時代のものだそうです。
碑文谷池から流れきた用水が、碑文谷八幡のところで立会川となっています。
昔、用水があり田んぼだった方にサレジオ教会が建っています。ここの幼稚園に通いました。
傍に散歩道の看板が建っています。碑文谷池の方には改めて行くことにし、ここで戻ります。
「雀のお宿」です。ひとり暮らしだったおばあさんがここを国に寄付したので出来上がりました。
ここは昔は本当に小鳥の棲家で、朝、大群となって南に飛びだし、夕方には群れをなして帰ってきました。空を覆う黒いゴマのようでした。前に藪を見にきたらスズメより少し大きかったような気がします。
梅雨が明けたのでしょうか。朝から夏の雲が出ています。
今日は家の近くから出発です。近くの十字路です。昔は「キケン」という看板があったので、キケン、キケンと呼んでいました。大岡山への道と中根方面に抜ける旧道が交差しています。
旧道を行くと鉄飛(てっぴ)の帝釈天です。1680年代の庚申塔が残っています。
鉄飛坂を下って呑川に至ります。由来は諸説あるようですが、この辺で一番急な坂です。
呑川緑道です。もう何年も前に暗渠になりました。臭いどぶ川で時々氾濫もしていたので当然でしたが、今は清流が流れていたらと思います。もっとも今は桜がきれいです。下流に向かいます。
東工大の所は公園のようになっています。この部分は昔は自然の川のままで、赤土の土手には防空壕が掘られていました。また、河床の粘土層から貝殻の化石を採ったことがあります。
緑ヶ丘の大井町線の線路を越えると、川が現れました。呑川です。
この水は何処から来たのでしょうか。新宿の上落合の下水処理場の再生水でした。
深い掘割を流れているせいでしょうか。清水窪の湧水や洗足流れのような清々しさは感じられません。大岡山のもう一つの坂、鶯坂を通って帰りました。
この暑いのに、どこをほっつき歩いているのだと妻に叱られました。
今日は洗足池から出て行く流れを追ってみます。それは洗足池駅の南側に湧いていました。
しばらくは単なる人造の小川でした。
ところがしばらく行くと様子が一変しました。堰を作り、水嵩を上げ、魚などを飼っています。
町ぐるみで、蛍なども育てているようです。
草なども植えられています。この小川を「洗足流れ」というのだそうです。
「洗足流れ」は暗渠に消えていきます。
新幹線の線路を超えて、本村橋のあたりで呑川に落ちて行きました。
呑川です。きれいになったものです。多摩川には合流せずに、東京湾に注いでいます。
この先に池上の本門寺があるのですが、取敢えずはこれでおしまいです。
Kazu